忘れねばこそ思い出さず候

今の時流とは、やや離れているのかもしれませんが
以前に、こんなエッセイを読み、心に残っていました。


「人間の発展には、三段階あり

第一は「幼年期」で
その特徴は自分と他人の間に境界線を引けない。
自他の区別がない。


第二は、自他とを区別する段階。
自分の意見をはっきり言う。
そのかわり、他人も意見をもっていることを認め、じっくり聞く。


第三期は成熟期で、自分と他人との関係を客観視できる時期。
自他との関係をみつめるもう一人の自分ができる時期。


日本人には、第一時期の人間が以外に多いのではないか。
第二時期の人間は、個性を持ち個人の意見をもっている。
西欧型人間といわれる人です。

日本には、第二の時期の人物をつくる、社会も歴史もなかったのに
第三の時期の人物が現れた。その理由は「道」ではなかっただろうか。」

このエッセイでは、道としての例で、茶道や書道などのお稽古事があげられ
ていますが、それが仕事でもよいのではないかと述べられています。


ということは
workaholicと言われてしまうくらいに
大切なものに取り組んでいる方のなかにも
第三期の成熟期の方がいらっしゃるのではないでしょうか。



あなたがいる。私がいる
あなたはあなた。私は私。
あなたと私は別の人。
でも、分かち合えるものがある。




「双方向」という言葉を最近よく耳にします。



今は、オリンピック開催中で、目標に向かって
選手の方々が真剣に戦われる姿に引き込まれ
手に汗握って、応援しています。
そして、その姿から、エネルギーをいただいています。
そこに至るまでの努力、苦しみ。プレッシャー。
そして、一瞬にかける気迫。
本当に本当にすごい。
人が全身全霊で取り組む姿ってすごい。



上記のエッセイからすると
自分の大切なものに真剣に取り組んでいる人は
もしかしたら、自分を見ているもう一人の自分をもった人
なのかもしれません。
そんな人たちが、向き合う人たちと、双方向で何かをやりとりする。
例えば、ある空間で。あなたがいて。私がいる。
言葉にしてみれば、あたりまえのことかもしれませんが。




人に何かを伝えるということの難しさを、常々感じます。
相手に、自分の伝えたいことを理解してもらえるように伝えること。
相手から反応をもらい、それを受け、自分の考えをまとめること。
「対話」するということ。
言葉にするとあたりまえでも、実際は難しいように思います。




「対偶の理」
という言葉があるそうです。
自分が理解されたければ、まず相手の理解に努める。
相手が自分をどう思っているのかを理解するのでなく
相手の考え方とか、泣きどころとか、バカさ加減とか、
それゆえの愛(かな)しさとか、性質をのみこもうとするのだそうです。



第三の時期の人で、そんな考え方をする方が、もしいらしたら
とても貴重なのではないでしょうか。
私は、その存在に支えられてきました。




双方向のことを書きながら
つらつらと自分の思ったことを書いてしまいました。
乱文を失礼します。



私は、今、遠藤周作さんがおっしゃった
畏怖の気持ちを持つことの大切さを感じています。
余談です。ただ、本当に思うのです。




All makes me cry.
−どれもが泣けてくるようなこと
と、素敵にほほえんで言えるように
自分を強くすることに努力する日々です。




泣いてくださった方たちがいました。
熱い想いに出会いました。
たくさんの優しさに包まれました。
自分には関係ないことなのに言ってくれた
生きろ、という励ましに支えられました。
辛いとき、その気持ちを理解してくださった方がいました。
苦しみをshareしてくださった方がいました。
自分のことのように憤慨してくださった気持ちに励まされました。
自分のことのように心配してくださった方にも。
喜んでくださった想いに、温かさを感じました。
信じてくださった方々に
自信を取り戻させてくださった方々に
言葉では表しきれない感謝を言わせてください。
本当に本当にありがとうございました。
暑い日が続いていますが、どうぞ、お体ご自愛ください。




ひとりよがりで、自己陶酔の文で
猛暑の折、辟易させてしまうかもしれません。
でも、どうしても書きたかったのです。
お手をとめました。読んでくださったこと、感謝します。